生きる、逮捕されても

まさかの「逮捕」で人生終わりかけましたが、僕はこれからも生きていかなければなりません。逮捕された経験ならではの思いを発信していきます。

【ここが辛いよ留置所】 名前で呼んでもらえない でも救いがあったのも留置所

名前では呼んでもらえらない

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基本ですね。留置所に入ったら、〇(部屋)の△番さんみたいな感じで、名前では呼んでもらえません。基本的には番号を振られて、その番号で呼ばれます。僕は5の部屋の1番(2人いるうちの)だったので、「5の1さん」という呼ばれ方をしていました。

まあ、なんてことない話なのかもしれませんけど、こうやって番号で呼ばれ続けるというのも精神的にはじわじわ来るものなんですよね。自分の本名がなんだったか忘れてしまう・・・というところまではいかないにしても、なんだか、自分が「ああ、犯罪を犯してしまって普通の人とは一線違ったところにいるんだな」ということを感じざるを得ません。

拘置所や刑務所まで行かなくても、留置所でこのような呼ばれ方をされるだけでも結構来るものがある人はいるのだと思います。僕なんかも自分が逮捕されるなんてことは微塵も思っていなかったクチなので、このような名前で呼んでもらえない処分には結構来るものがありました。

 

取り調べの時は別

とは言え、取り調べの時は別です。刑事さんからはちゃんと名前で呼んでもらえます。もっとも、この取り調べの作業はなかなかにハードなもので精神的に疲弊してしまったりするのですが、僕の場合は、担当の刑事さんが事件をスピーディーに解決して、僕がしっかり更生できるようにサポートしたいという熱い気持ちを持った方々でしたので、この取り調べの時間が、自分の人間らしさというか、本来自分がどういう人間だったかということを思い起こすいい時間になっていたようにすら思います。刑事さんからは決して机をバンバン叩くような執拗な取り調べを受けなかったどころか、どちらかというと、昔の話の中を聞きながら、本来であれば、今回犯したような犯罪を犯すような人間でなかったということを一生懸命立証してくれるような感じの方々で、自分の味方だという感じがしました。これも捜査一課の皆さんの手法なのかもしれませんけど、自分にとっては、そういった捜査一課の方々の手法に乗っかる方が気持ちは楽でした。

 

プラスになるのはどっち?

ですので、留置されてる間、刑事さん、留置管理課の方に対してはあまり不信感を持つことがなかったどころか、どちらかというと信頼ベースで話ができたので、助けてもらったという印象が今でも残っています。留置管理課の警察官、担当の刑事さんにしても、今会うことがあれば、どちらかというと、自分の精神衛生にとって+に働いてくれる方々のような気がします。釈放された今になっても、自分をサポートして叱咤激励してくれる人はいるにしても、その人たちにはいかんせん、罪を犯した人間の気持ちなんてわからないわけです。今も身近に暮らしてくれている自分の父親に対してもそのようなことを思ったりします。その点、留置管理課の警察官にしても、取り調べ官にしてもも、多くの犯罪者と接しているせいもあるのか、その言葉の一つ一つには、何となくではありますが重みがありました。

しきりに言ってたのは、「あなたの人生終わりじゃないよ」ということでした。罪も犯したことがない人より言われるより、罪を犯した人をさんざん見てきた人から言われたことでは、そりゃ重みが違いますね、

 

今、留置所を出て自由の身となっておりますが、精神衛生面でのフォロー体制は留置所での生活の方が充実していたかもしれません。今も助けてくれる方はいるのですが、どうも「罪を犯した人」と「そうでない人」の壁がありすぎて。フォローやアドバイスがきつく感じるというか響かないこともあります。そういう意味では、留置所にいた時の方が精神衛生上のフォロー大耐性はできていたのかもしれません。なんとも皮肉なものですね。

   

殺人衝動というものを感じたことがありますか?

自分の人生終わりにしてでも殺したい人間がいる

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このような感情を頂いていること自体、結構重症だと思います。

具体的な記述は避けますが、僕の人間としての尊厳の全てを否定して、且つ僕の人生の全てを奪おうとしている人間がいるのですが、もし、殺人が罪に問われないのであれば、僕は間違いなくその人間を死に追いやっていることでしょう。想像し得るありとあらゆる残酷な手段を使って。

 

むしろ、自分の人生などもうどうにでもなって構わないと思っているので、いっそのこと、そいつを殺して自分も死ぬのもありかと思っています。そのような事態になるのは全然怖くありません。だって、自分の人生に未練なんてないのですから。残された人間が何を思おうと関係ありません。憎悪の感情が止められないのです。

 

そいつが生きている限り自分は苦しみ続けなければなればない、自分の人生の再起・再生を妨げているのはすべてそいつのせいだ、という思いがあります。そいつさえいなければ、そいつの存在さえなければ、自分はまたもとの幸せな生活を手にすることができると思うと、腸が煮えくり返る思いです。

 

自分勝手な言い分であることも重々承知しておりますが、殺人衝動というものは大抵が自分勝手なものです。そこに綺麗な合理性やロジックなどといったものは存在しません。ただただ、おぞましい感情がそこに蠢いているに過ぎません。

 

ブレーキをかけているもの

しかし、僕はそういった衝動に身を任せて、殺人を実行に移すことはないでしょう。というのも、僕がそのような行動を起こすことで迷惑を被る人間、失望する人間がたくさんいることが容易に想像できるからです。僕がそういった行動を起こすことについて、悲しみを覚える人間が一人でもいる限り、僕は殺人衝動に身を任せることは決してありません。僕には自分のことを気にかけてくれる存在を守る義務があります。ですから、そのような残酷・残虐な衝動に身を任せることはできません。

 

しかし、覚えておいて欲しいのです。幸い、僕には、自分を自分のことを気にかけ、守ってくれる存在がいます。そういった存在が、僕が最悪の事態を引き起こさないためのブレーキになっているということを。そういった存在がなければ、僕は一気に殺人衝動に身を任せて、自分の人生もその人間の人生も終わりにしていたことでしょう。

 

きっと、僕と同じような境遇に置かれている人間は少なくないと思います。人生うまくいっていたのに、警察の世話になることによってその人生がメチャクチャになってしまった人間が。

そういう人に、どうか皆さん、救いの手を差し伸べてください。その人が最悪の行動を起こしてしまわないためのブレーキになって欲しいのです。過ちは犯しましたが、本人が誰よりも更生を考え、真面目にこれからの人生を生きていきたいと思っている人がたくさんいるはずです。

 

一口に逮捕経験者、元受刑者などと言ってその人を断罪することなく、一人の人間として見てあげて欲しいのです。そうすることで、これから起こり得る最悪の事態を防ぐことも、その人をどん底から救うこともできるはずですから。

 

僕は、自分のおぞましい殺人衝動よりも、自分を守ってくれる人の存在を信じます。

   

死にたいのではなく、八方塞がりになった人生から逃げ出したいだけ

今までの僕は「死にたい」という人に上から目線だった

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僕は、逮捕経験を経て、やっと「死にたい」という人の気持ちがわかるようになったような気がします。ここのところ、気付くと、一日に何度も「あー死にたい」というようなことを口にしています。それも無意識のうちに。結構な重症だと思います。だって生きる希望なんてどこにもないんですもん。やりたいことも適わなくなった、パートナーも失った、再起の道は限りなく厳しい……ときたらもはや絶望しかありません。仕事が残っているのがせめてもの救いですが、それもそこまで明るい材料ではありません。

それで、一日に何度も「あー死にたい」なんてことをボソリボソリと口にしてしまうわけですが、最近わかってきたのが、決して僕も「死にたい」から「死にたい」と言ってるわけではないんですよね。生きることがあまりにも辛くて、あまりにも不自由で、あまりにも苦しいから単純にこの生きることから逃げ出したい、って思ってるだけなんです。できれば生きていたい、という想いが心の底にあることは百も承知で、そのうえで「死にたい」なんてことを口にしているんです。言って見れば、本音と、口に出していることには大きな乖離があるわけです。

 

今まで、僕の周りでも「死にたい」という言葉を口にする人ってのは一定数いたんですが、僕はそういう人たちに対して、無意識のうちに「それは甘えだ」「どうせ構ってちゃんなんだろう?死ぬって言葉を出せば構ってもらえると思っているんだろう?」みたいなややもすれば彼・彼女らを見下す感情を抱いていました。そのことは否定できません。僕には、彼・彼女らの本当の気持ちがわかってなかったんです。今で言えば、むしろ自分が「死にたい」という時には、誰かに構って欲しいというよりは、誰にも構って欲しくないという状態の時が多いような気さえします。構ってちゃんとはまったく逆の心境ですね。

 

今になって思うのですが、彼・彼女らは死にたいとか本気で思ってたわけでなく、単に八方塞がりになった人生から逃げ出したいだけだったんです。それが「死にたい」という言葉になって表現されてるだけで、きっと、本心は「自分の望む通りに生きたい、だけどそれが限りなく困難だ」というところにあったのだと思います。僕自身、できれば幸せな人生を歩みたいけど、それができそうにもないから人生投げ出してしまいたい、みたいなところでもがいているので、日々発せられる「死にたい」という言葉と、その背後にある思いにギャップがあることは日々感じております。

 

「死にたい」の背後にある気持ちを汲み取ってあげて欲しい

おそらく、このブログの読者の周りにも日ごろから口癖のように「死にたい」ということを口にしている人がいるかもしれません。それで、僕からお願いしたいのは、「その言葉を額面通り受け取らないでください」、ということです。「死にたいなんていうことは言ってはいけないよ」「命は大事にしなきゃいけないよ」なんていうことは、「死にたい」ということを口にしている本人が一番わかっているはずなんです。死にたいという人たちは、自分の人生を大切にしなくちゃいけないことが分かったうえであえてそういうことを言っているのです。

 

ですから、額面通り「死にたい」という言葉を受け取って「それはいけないよ」というのではなく、何故、そのように思うのか、ということを丁寧に聞いてあげる必要があるような気がしています。シンプルなようですが、「死にたい」という当人の思いを否定するのではなく、一旦受け止める、そういった度量が周りのサポート者には必要なような気がしています。

 

やっぱり、僕も色んな人に人生相談する中で、「死にたいなんて思っちゃ絶対だめだよ」とやたら強く言う人に対しては、「この人は自分のことわかってくれてないなあ……」と思うことも多々ありましたし、まずは自分の死にたいという思いを受け止めてくれる人の方が話してて安心感がありました。

 

とりとめもない話になりましたが、今日はここらへんで。

   

逮捕されて執行猶予付きの有罪判決くらった友達のことを思い出した

そいつに比べたら多分俺は小物

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自分は新聞記事には載ったけど、あくまでも地域のことを扱う小さな欄。そいつは全国区のニュースでワイドショーでも話題になっていたし、世間からも相当叩かれた(今も調べれば名前は出てくる)。2chなんかの匿名掲示板でも大分悪く言われてたし、そいつの受けた社会的制裁に比べると、自分が受けた社会的制裁なんて何でもないようにすら思える。

そいつも、今はしっかりと更生して、ショービジネスやら格闘技の世界で成功を収めてるっていうんだから大したもんだ。まあ、もともと頭のいい奴だったし、そいつくらいの大物であれば一回や二回の逮捕なんて何ら気にならないのだろうと改めて感じる次第で。

 

もともとぶっ飛んでた奴だった

なんというか、そいつが逮捕されたからって別に極端に驚くようなこともなかったし(多少はビックリしたけど)、特に偏見の目で見ることもなかった。それどころか、執行猶予の判決ついてから電話で話した時なんて、随分とあっけらかんとしたもんだったのを覚えている。「こいつ自分のやったこと自覚してんのかなー、あんなに世間に叩かれたのに随分とタフなメンタルしてんなー」、と思ったけど、そいつは昔のまんま変わってなかっただけの話で、当時もやってみたいことなんかを色々話してくれて、「あ、こいつは間違いなく成功するわ」ってのを直観的に感じたのを今も覚えてる。

 

過去に囚われて走らないのは多分損

そいつと今の俺の決定的な違いは、必要以上に過去に囚われているか否かってところだと思う。もちろん、そいつがそれなりの精神的なダメージを負っていたのもブログかなんかを見て知ってはいたけど、そいつはそこで立ち止まらなかった。やりたいこと、自分にできることを追求して走り続けた。だから今があるし、そのやりたいことを応援してくれる人もたくさんいる。もっとも、俺も過去にそいつがそういう失敗をしたことを知りながら応援して付き合ってる人間の一人だし、逮捕歴があるか否かってのはもしかすると自分が気にしているほど大きいものなのではないかもしれない。

 

今も頑張ってるそいつが自分の進むべき道というか、生き方のようなものを教えてくれているような気がしてならない。久しぶりに会ってみたいなあ・・・今日はちょっとフランクな口調で。アイラの凡人でした。

 

   

【ここが辛いよ留置所】 とにかく読んでも集中できない!

活字に集中できません

留置所の一番の敵は「暇」だと思います。官本と呼ばれる留置管理課で貸し出している本もあるのですが、自分のこれからどうなるのか不安で、まったく活字が頭に入ってきません。要は活字に「集中できない」わけです。いつもであればすんなり頭に入ってくる内容がサッパリ頭に入ってきません。自分は留置所に来て馬鹿になったのかと心配しましたが、今思えばあの異常環境の中で集中しろ、というのが無理な話でした。一応、文庫本にして300ページくらいのものを3冊くらい読んだ記憶がありますが、随所随所が歯抜けになっていて中身を問われても深く覚えてはいません。

 

アウトプットの作業は意外と捗る

何かをインプットして知識を構築していく作業は手間取りますが、感じたことをアウトプットする作業なんかはわりとスムーズにできたりします。例えば、与えられた教科書を基に書くことをメインで勉強したり、留置所でその日感じたことを文章にしてみたりというのは、割と苦なく進む作業で、どちらといえば活字を読むより、そういった作業をしている方が楽しかったです(おかげで大学入試レベルの倫理と世界史はだいたい頭に入ったような気がします)。

 

そんなわけで必要なのは「ノート」

やはり、留置所生活で何が必要か、と言われればノート(強いていうなら+参考書)ではないでしょうか。ノートさえあれば、その日にあったことをまとめたり、手紙を送りたい人への文章を考えたりすることができるわけですし、あった方が創造的な作業を進めるのには訳にたってくれそうです。自分もノート自弁や差し入れで入れてもらいましたが、合計7冊くらいは一か月間の勾留期間中に使い終えたはずです。そして、その時学んだことは今も自分の中で教養としてしっかり生きているように思います。自分の今の状態を客観視するのに倫理の勉強なんていうのは非常に役立っているように感じます。  

ノート買うにも現金!

で、何度も言うようですが、ノートを買うにも現金が必要というか、現金さえあればOKです。ですから、近しい人が留置所に入ってしまった、という時に差し入れるのは、まず何を差し置いても「現金」だと思うわけで

 

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