死にたいのではなく、八方塞がりになった人生から逃げ出したいだけ
今までの僕は「死にたい」という人に上から目線だった
僕は、逮捕経験を経て、やっと「死にたい」という人の気持ちがわかるようになったような気がします。ここのところ、気付くと、一日に何度も「あー死にたい」というようなことを口にしています。それも無意識のうちに。結構な重症だと思います。だって生きる希望なんてどこにもないんですもん。やりたいことも適わなくなった、パートナーも失った、再起の道は限りなく厳しい……ときたらもはや絶望しかありません。仕事が残っているのがせめてもの救いですが、それもそこまで明るい材料ではありません。
それで、一日に何度も「あー死にたい」なんてことをボソリボソリと口にしてしまうわけですが、最近わかってきたのが、決して僕も「死にたい」から「死にたい」と言ってるわけではないんですよね。生きることがあまりにも辛くて、あまりにも不自由で、あまりにも苦しいから単純にこの生きることから逃げ出したい、って思ってるだけなんです。できれば生きていたい、という想いが心の底にあることは百も承知で、そのうえで「死にたい」なんてことを口にしているんです。言って見れば、本音と、口に出していることには大きな乖離があるわけです。
今まで、僕の周りでも「死にたい」という言葉を口にする人ってのは一定数いたんですが、僕はそういう人たちに対して、無意識のうちに「それは甘えだ」「どうせ構ってちゃんなんだろう?死ぬって言葉を出せば構ってもらえると思っているんだろう?」みたいなややもすれば彼・彼女らを見下す感情を抱いていました。そのことは否定できません。僕には、彼・彼女らの本当の気持ちがわかってなかったんです。今で言えば、むしろ自分が「死にたい」という時には、誰かに構って欲しいというよりは、誰にも構って欲しくないという状態の時が多いような気さえします。構ってちゃんとはまったく逆の心境ですね。
今になって思うのですが、彼・彼女らは死にたいとか本気で思ってたわけでなく、単に八方塞がりになった人生から逃げ出したいだけだったんです。それが「死にたい」という言葉になって表現されてるだけで、きっと、本心は「自分の望む通りに生きたい、だけどそれが限りなく困難だ」というところにあったのだと思います。僕自身、できれば幸せな人生を歩みたいけど、それができそうにもないから人生投げ出してしまいたい、みたいなところでもがいているので、日々発せられる「死にたい」という言葉と、その背後にある思いにギャップがあることは日々感じております。
「死にたい」の背後にある気持ちを汲み取ってあげて欲しい
おそらく、このブログの読者の周りにも日ごろから口癖のように「死にたい」ということを口にしている人がいるかもしれません。それで、僕からお願いしたいのは、「その言葉を額面通り受け取らないでください」、ということです。「死にたいなんていうことは言ってはいけないよ」「命は大事にしなきゃいけないよ」なんていうことは、「死にたい」ということを口にしている本人が一番わかっているはずなんです。死にたいという人たちは、自分の人生を大切にしなくちゃいけないことが分かったうえであえてそういうことを言っているのです。
ですから、額面通り「死にたい」という言葉を受け取って「それはいけないよ」というのではなく、何故、そのように思うのか、ということを丁寧に聞いてあげる必要があるような気がしています。シンプルなようですが、「死にたい」という当人の思いを否定するのではなく、一旦受け止める、そういった度量が周りのサポート者には必要なような気がしています。
やっぱり、僕も色んな人に人生相談する中で、「死にたいなんて思っちゃ絶対だめだよ」とやたら強く言う人に対しては、「この人は自分のことわかってくれてないなあ……」と思うことも多々ありましたし、まずは自分の死にたいという思いを受け止めてくれる人の方が話してて安心感がありました。
とりとめもない話になりましたが、今日はここらへんで。