生きる、逮捕されても

まさかの「逮捕」で人生終わりかけましたが、僕はこれからも生きていかなければなりません。逮捕された経験ならではの思いを発信していきます。

「自分の人生なんてどうでもいい」と思うのは黄信号というか赤信号。

自分の人生は大事にしましょう

凶悪犯罪を犯す人のメンタリティに共通して言えることがあります。それは、彼・彼女らは「自分の人生なんてどうなってもいい」と思っているということです。彼・彼女らは「自分の人生がどうなってもいいと思っているから、他人の人生をリスクなく、問答無用に破壊できる」わけです。家族や仕事、仲間など、自分の人生の中で守りたいものがあるのであれば、他の人の人生を台無しにすることで、その守りたいものも同じように台無しになってしまうことは容易に想像がつきます。

ですから、社会として凶悪犯罪を防ぎたいのであれば、「自分の人生なんかどうなったったっていいって言う人を一人でも減らすこと」が大切なように思います。言ってしまえば、守るべきものを加害者になり得そうな人にも作ってあげるというような制度や仕組みが大事だと思うわけです。そういう意味では、元受刑者に就労支援を行うなんてのは重要な取り組みだと思います。

僕自身、自分の人生終わったと思ってる節がありますから、ハッキリ言って、自分に対して極度の敵意を向けてくる人間に対して、自分の人生を反故にしてまでも一矢報いてやりたいみたいな思いは正直あるわけです。正直、今でも自分の人生終わりにしてでも、そいつの人生も終わりにしてやりたい、みたいなヤツはいるわけで。

 

加害者に甘い、いいじゃないですか

先日も書きましたが、日本は加害者に甘い側面があることは間違いがありません。でも、最近はそれもいいんじゃないかと思うようになりました。だって、加害者に甘くすることで、なんていう風に皆「自分の人生は多くの人に支えられてる、だからやけになってこれ以上の凶悪犯罪を犯しちゃいけない」が思うことができたら、それはそれで万々歳じゃないですか。これ以上の犯罪の悲劇の連鎖を起こさないためにも、犯罪者が自分の人生は投げ出すにもったいない、大切に生きるに値するものだ、と思うことができれば凶悪犯罪ってのは減っていくはずですから。もちろん、法に基づく罰則というものを否定するつもりはありませんし、必要な罰を用意することは、犯罪を減ずる抑止力として働くことは間違いないはずです。どうも、日本は罰するだけ罰して、必要以上の社会的制裁を加えて、犯罪を犯した人の更生をどう考えるか、というところにあまりに無頓着な気がしてなりません。

 

もちろん宗教的な事情はあるにしても

ISが起こすような自爆テロの根幹にあるものは正直分かりかねるものがあります。貧困が背景にあるのか、純粋な宗教的な理想があるのか、それはわかりません。でも、いずれにしても、彼・彼女らが日々十分に満たされた生活を送っていたら、他人の人生を無慈悲に終わらせるようなテロ行為には走らないと思うのです。貧困とテロはよくセットで語られますが、テロを起こさないためには貧困の問題を解決することが第一なように思います。先日のダッカでのテロ事件の「通り、日本人はテロの標的にならないなどという時代はハッキリと終わりを告げたと思っています。自爆を考えたテロ犯に更生を求めても仕方ありません。テロを抑止するには、彼らがどうやったらテロを起こさないようにするかを考えるしかないのですから。