生きる、逮捕されても

まさかの「逮捕」で人生終わりかけましたが、僕はこれからも生きていかなければなりません。逮捕された経験ならではの思いを発信していきます。

元クリスチャンだった僕が逮捕されて感じる葛藤について

昔は結構真面目なクリスチャンでした

僕はもともと繊細で傷つきやすい性格をしていることもあるんですが、聖書やキリスト教についてある期間一定程度本気になって勉強した時期がある経緯なんかもあって、「罪」を犯すということに対して独特の感性のようなものを持っていたりします。

他人が罪に思わないことまで罪に感じてしまうような、罪に対する敏感さを持っているとでも言うべきでしょうか。

その一方で、聖書の影響で「他人を赦す」ということに対しても、大衆に乗じて他人を安易に裁きがちな日本人の中ではかなり強く意識して生きているということも、加えておきます。

 

 

聖書には「赦し」があるから救いも更生も成り立ちます

聖書ってのはちょっと読んでみたり学んでみたりするととわかると思うのですが、あれも罪だ、これも罪だと言って、やたら有罪判決をしてくるんです。聖書読んでいると自分がやたら悪いことである人間に思えてきます。

ですが、その罪を神であるキリストが命をかけてすべて赦してくれ、永遠のいのちまで与えてくれた。だから神様に感謝して、神様を第一にした生き方をしましょう、っていうのがキリスト教信仰の根本です(大分簡潔に書きすぎましたが)。

 

僕には「赦し」がありません

で、問題なのは、自分が教会通っていなかったり、聖書から離れているせいで「自分が神という絶対者から赦されている」という実感がないことなんですね。さんざん「俺は悪い奴だ、とんでもないことをしてしまった」と自分で自分を裁いて、肝心な赦しを実感できないという最悪の状態になってしまっているわけです。

 

聖書にはこんなことが書いてあります。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1:9)

 この御ことばを心の底から信じられればどんなに心強いでしょうか。人間というのは、自分が赦されているという実感というか確信を持つことで、他人に寛容になったり、自分の罪を素直に認めて、他人への償いも真摯にできるようになるものです。

「自分は赦されていない」という実感でいる限りは、半永久的にに自分の罪の中でもがき苦しみ、他人のことなんて考えられなくなる負のスパイラルに入ってしまいます。

僕がこのブログで自分のことばかり書いているのも、自分は「赦されていない」ということをあまりに強く持ちすぎているのだからだと思います。

 

罪の葛藤から抜け出せないと本当の償いに向かえない

「被害者やその関係者からは赦されていないけど、絶対者である神からは赦されている」きっと、こういう実感を持てれば、被害者に対する償いの気持ちを持つ余裕のようなものも持てるのだと思います。

そういう観点で考えると、神による赦しの実感を持つということは非常に大切なことのような気がします。ドラマやら映画やらで拘置所や刑務所で受刑者が聖書を読んでいるシーンなんかが使われたりしますが、「神様というとんでもなく尊い存在が自分を赦してくれてる」ということは誇張抜きで犯罪加害者の救いに繋がると思っています。